昭和49年6月18日 朝の御理解
                                      中村良一
御理解 第96節
「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ、人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」



神様が、顔を洗うてやると仰ることは、神様が、顔を染めて下さると。なるほど、本当に、今限りの、まぁ貧乏しよりなさったけれども、金光様の信心しよら、何で貧乏せんならんじゃろうかと、例えば、言う様に言われるような事があっても、それで、心を汚したり、穢したり、慌てたりしてはならん。先を知ってはおらぬ。ね。どんなに、例えば、顔に関わる様な事を、例えば言われても、腹を立てな。神が顔を洗うてやると。それが、段々、身に付いて、お伺いしていくうちに、ね。なるほど、金光様の信心しよったから、あんなにお家も立派になった。商売も繁盛しよる。第一、人間が変ってしまわれた。ね。あの人の家こそ、本当の、まぁ極楽だろうと、人が言うてくれるようなおかげをね。私は、頂く、下さるという事だと思うですね。ただ、おかげだけを頂いたんではですね。永年信心しよりなさったら、あんなに、商売も繁盛してから、儲け出しなさったと。けれども、人間が、一つも、それに伴うて、変わって行ってなかったとするならね。変わった手柄ぐらいの事でもなかった。なぜかと言うと、信心がなかっても、お金を沢山持っている人が、沢山あるですから。ね。本当に、信心しよりなさって、どうして、あそこは、あげん病人が出るじゃろうか。ただ、おかげを頂いて、病気をせんごつなった。病気の人間が、おかげを頂いて健康になったと。そらやっぱ、信心しよりなさったけん、健康になりなさったと言うだけで。そら、健康な人と言うのは、信心がなかっても、健康な人はあるのだから。ね。ですから、なるほど、貧乏しとるなら、金持ちにならんならん。不健康であるなら、健康にもならなきゃならない。ね。
同時に、私は、どの様な事柄、どの様な物にでも、ね。その中に溶け込んでいけるほどしの、大調和の心。いうならば、自然にに溶け込む。そこから、自然を生かすことが出来るという御教えを頂きました様にです。ね。本気で、私共が、心行をさせて頂いて、一切のものに調和する心を、より育てる精進をしなければならない。ね。それに伴うて健康であり、分限者の徳であり、ね。金持ちになるという事であり。だったら、どういう事になりますか。もう、必ず、人はね、金光様の信心せんなん。だから、おかげ頂きなさったという人があります。自分は、はぁこれが、この世の極楽だろうかという様なおかげを頂きなさった。心は、一切のものに調和する。それに健康になった。それに、お金に不自由せんと言うおかげ。そういうおかげを頂く事がです。私は、神様が顔を洗うてくださるという事は、そういう事だと思うんです。神様が、顔を立ててくださるという事は、そういう事だと思うのです。ただ、そうにゃ参りよりなさったけん、やっぱ、医者も見放したごたる病人も、やっぱ、助かりなさった。この頃は、あそこはもう、商売も繁盛して、お金に段、不自由しよりなさるごたる風じゃない、と言うだけならです。今日、皆さんに言う様に、信心がなかっても、商売大繁盛しよるところもありゃ、栄華冥利もあるじゃないですか。ね。それこそ、金に糸目をつけずに、ね。良い薬を飲んだり、良い医者にかかったりしてから、病気がようなりなさったと言うのは、神様のおかげと言わんでも、ようなりなさる人はあるじゃないですか。だから、そげなこっじゃないです、神様が、顔を洗うてやると仰るのは。神様が、顔を洗うてやると仰るのは、どこどこまでも、心が助かるという事です。心が助かるという事はです、ね。一切のもの、どういう事にでも、調和をする心。それを育てるという精進。いうならば、自然に溶け込む、ね。言うなら、成り行きを尊び、大事にさせて貰う。そういう精進が、いよいよ、なされる時です。どういう事になるかと言うとね。もう、目に見えない力。これは無限の働き、無限の力と、だから言うても良い訳です。ね。もう、目に見えない力と言うほど、すさまじい事はないです。
目に見える力というものはです、限りがあるのです。いうなら、分限者になるとか、健康になるとかというだけには、限りがあるです。ね。言うなら、それを、あの機械ごとなんかに見ると、それが一番分かる。ね。四馬力とか、何十馬力というでしょう。ね。例えそれが、百馬力なら百馬力という事であっても、もう限りがあるでしょう。これはもう、百馬力の出る機械だから、ね。いよいよの時に、千馬力が出るち言うことは、絶対ないです。ね。いや、千馬力の力が出て、今度、いよいよの時には、これが、ね。万の力も出るという事は、何もないです。先ず、絶対ないです。形のあるものには、限りがあるからです。ところが、目には見えないけれども、目に見えない力。それを、教祖様は、御神徳と仰る。心に力を頂く。それこそ、世界を自由にするほどしの力が頂けれるんです。天地を自由にするほどしの力が頂けるんです。大した事でしょう。ね。
それを、例えば、人間の力と、言うならば、雨を降らせるとか、雲を起すとか、色んなことが、まぁ別に、そうですけれども、ね。それはもう、本当に、些細な事です。それに、人間はもう、それこそ、一生懸命の、科学の力、機械の力というですね、を、駆使しても、言うならば、心で起す力にはかないません。ね。大砲を何十発、空に向けて打つと、まぁその、雨が降るとかね、なんかと言う。けれどもね、心の力と言うものはね、ね。それこそ、どういう豪雨でも、そこに起こすことが出来る。心では。言うなら、自然の力はね、自然の働きをね。人間の心次第で、自由自在にする事が出来るという事なんです。ね。そこで、ほんならそれを、分かりやすく、ここで何時も、みんなにお話しておる事はです。ね。氏子が神様任せなら、神様が、氏子任せになると仰せられますからという事です。ね。私共が、いよいよ、神様任せにならせて頂いたら、ね。その修行が、積んで積み上げられたら、本当に、純粋に素直にならせて頂いたら、ね。神様が、氏子任せになると仰せられますから。神様が、氏子任せになって下さったら、どういう事になるでしょうか。ね。いわゆる、限りある、目に見える力などとは、とても、その器量はないです。信心は、その目に見えない力。それを蓄えていく。それには、ね。本気で素直にならせて貰う信心。
夕べ、合楽会で、久富繁雄さんが発表しておられました。ね。この頃からもう、とにかく、農家のことですから、何時も忙しい。しかも、沢山の畑があるから忙しい。家に帰ると、若い者が一生懸命、ばたばたやってると、見るに見かねて、やっぱり、そちらのほうへ心が動く。今日は、親先生が、あげん言いよりなはったから、行かんならんけれども、ご無礼して、つい畑のほうへ行ってしまうと言う様な事に、まぁ何時も、そこんところに、自分の踏ん切りがつかんじゃろうかと、歯がゆう思うという事です。分かっっとって出来んのだから。先日からも、ちょっとした事で腰が痛くて、どうにも出来ん。ね。しようと思うても、実際には出来ない。けれども、昨日一昨日ですか。昨日でしたね。尾道の教会から、ここへ団体参拝がありました。それだけん、お茶の準備やら、お茶の用意やらを、まぁ受け持ておられますから、その事に、一生懸命、用意しておられたら、何時の間にか、腰の痛さが治ってしもうとったと。もう、これは、今度だけの体験じゃない。何時も、ここの所を、お気付けを頂いたり、おかげを受けるという事。神様のほうへ、もう任せきった心になっておきゃ、おかげは頂かれるという事が分かっておる。どういう事かと言うと、私が、親先生任せにさえなっておきゃ、神様任せにさえなっておきゃ、神様が、氏子任せになってくださるほどしのおかげが頂ける。いうなら、序の口までおりながら、そこに踏ん切りがつかんでと言うておられます。ね。神様任せとか、素直とかという、いうならば、合楽じゃ、手本のように言われなさる繁雄さんですら、(  ?  )。ですから、まぁ本当に、もう繁雄さん、まぁ一押しのと言うて、夕べも話したことでした。ね。その忙しい、押した、その向こうにです、ね。心の力が頂けれるのです。言うなら、天地が、繁雄さんのために自由になって下さる事が出来るんです。ね。
この頃から、一反も作った甘藍が、もう、(やーすいなからもう、只で、小売屋さんに他所にやってしまわれた。?)ね。そういう様な事の、あって良かろう筈がないね、実際。と、お気付けを頂いておられる。ね。神様が、氏子任せになって下さるという事になる時にです。ちゃっと繁雄さんが、あぁして一生懸命参りござった。朝はもう、やんがて十二時頃になって帰る。もうあの、近所の人達は、畑に出て一生懸命働きよりなさる。近所のもんが、随分笑いもしよろう。んにゃ、言葉じゃ、あんた結構なもんのち言いよるかも知れん。けども、心じゃ笑いよる。なしかち言うて、一反にも作って、甘藍ば只でやらにゃんごたる、結果がここにあるもん。ね。言うならば、今日の御理解で言うと、神の比礼に関わる様な事を言われ、芯から言われよりなさるに違いはない。けれども、いや、その次が、また、よう出来たてんなんてんち、けちなおかげじゃない。神様が顔を洗うてくださるという事は。ね。それこそ、天地は、繁雄さんのために、自由になられるほどしのおかげを頂かせていただいた時です。それには、ね。健康のおかげも大事。お金に不自由しないほどの、お金の儲かることのおかげも大事。けども、一番、そういうようなおかげなら、信心なしよらんでん、金持ちは沢山あるです。そういうおかげなら、信心なしよらんでも、もうそれこそ、一家中で健康で、バリバリやっとる人が沢山あるとじゃから。そげなおかげ頂くようなこっじゃ出来ん。ね。言うならば、先ず第一は、家、家族中の長が、それほどしのおかげをいただかにゃ出来ん。家庭円満、言うなら、家庭中の者が拝み合うておれる様なおかげを頂いた時にです。この三つが足ろうた時にです。はぁあっちこそ、極楽じゃよという事になる。その時、初めて、神が顔を洗うてくださったと言うおかげなんです。ね。
私はね、昨夜から、どうでも、合楽、合楽には、合楽と言うけど、神様と氏子が、ここでは、本当に喜びあい楽しみあい。本当に、言うならば、地上天国とでも言おうか、仏教的にいうなら、極楽とでも言おうか、ね。御道の信心で言うならば、和賀心時代を合楽の教会に、先ず頂いて。そして、合楽にご神縁を頂いておる人達が、みんな、ね。和賀心の世界に住まわせていただくほどしのおかげを頂いた時に、初めて、神が顔を洗うて下さったという事になるのです。だから、何と言ってもですね。心行とは、一切のものに調和する心を育てるところの精進を、本気でなさらなきゃいけん。同時に、本気で素直な、自分の都合のよか時だけが、神様任せじゃいかん。ね。もう、心の底から、芯から、神様へゆだね任せる心と言うものを頂かせて貰うて、神様が、氏子任せになってくださるほどしのおかげを頂いた時に、ね。言うなら、目に見えない力が、いよいよ出来てくる。それは、言うならば、天地を動かすほどしの力。金で動かす、機械で動かす、科学の力で動かすと言う様なものには、限りがある。私どもは、その限りのないおかげの頂ける。限りのない力を頂くことのための信心修行をさせて頂いておるのですから、一つ、本気でね。私は、合楽に通うておる人達は、本気で、和賀心の世界に住まわせていただくおかげ。これが、地上天国であろうかと思われるようなおかげ。ね。
この頃、小笠原先生ですね、(?)教会の。どうして、あんなことを言いなさったか知らんのですけれども。ご両親に、ちょっとご挨拶をしてくると言われるんですよ。大体、両親を知っとる筈は無いんです。ところが、後で、秋永先生と話したことでしたけど。あっちは、おかげの泉ば、ずっと読みよりなさるけんで、私が、両親ば大事にしよるような話やら、時々出てくる。だから、その両親ちゃ、もう二人共、近所に居りなさるぎなが、どんなこっじゃろうかねと。まぁ見たいと言う気が起こりなさったっじゃろ、わざわざ、裏まで行ってから、あの行きなさったち。そして、会うて来てからです。本当に、お宅のご両親こそ極楽というのじゃろうと言われました。ね。こういうような素晴らしい、いうなら、お家に住まわせて頂いて、ね。もうそれこそ、甘な辛なが揃うて、ね。冬でも寒くはない、夏でも暑くはないようなおかげを頂いておられると言う事実を、何か聞いておられたんでしょう。あの、おかげの泉やらで読んでおられたんでしょう。だから、ほんなごて、極楽行っちゃるじゃろうかと思うて、見に来なはったつじゃないじゃろうか。そして、あの、帰ってきてから、もうお宅のご両親こそ、極楽に住んであるとでしょうと。別にどこが痛い、( ? )が痛い、痒いも言われんで、あぁして、本当に、みんなに大事にされながら生活しておられるとこういう訳なんです。ね。だから、合楽にです。そういう本当の極楽の手本を、先ず、作らせて頂く。ね。
それこそ、地上天国というか、極楽というか、和賀心の世界に住むと言う手本。それを見て、ほんなら、とやこう、どんなに例えば、言いよった者でも、なるほど神様じゃなぁと、私は、合点して下さると思うです。そすと、本当に、そういうおかげが頂ける道があるならです、ね。こういうおかげを頂けますよと言う手本を、目の前の心の中に、家庭の中に、それを打ち立てて行かなきゃいけん。その為には、先ず一つ、本気で、ね。繁雄さんじゃないけれども。もうもう、一追いですよという勉強をさせて貰うて、ね。おかげを頂き、いよいよ、一切のものに調和する、一切のものに拝まれる、または拝められる心の状態を、いわば、一切のものに調和するという事であると思うのですけれども。そういう心を育てる修行精進を、しっかりさせて頂いて、ね。目に見えておる力ぐらいの事ではない。目に見えない偉大な力をです。ね。自分の心に頂きたい。そしてその、目に見えない、偉大な力こそが、ね。心目を見張る様な事にもなって来る。なるほど、信心してござったから違うという事になるという事を、今日は、神が顔を洗うてやると仰るのは、そういう事だと言うことを聞いて頂きましたね。どうぞ。